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夜 半 歌 聲
逢いたくて逢えなくて

1995年公開

監督・・・・・于仁泰(ロニー・ユー)
プロデューサー・・・・・張國榮
脚本・・・司徒慧[火卓]、黄百鳴、于仁泰
撮影・・・・・・・・ピーター・パウ
美術・・・・・・・・馬磐超
衣裳・・・・・・・・張叔平
出演
ソン・タンピン・・・張國榮(レスリー・チャン)
ドゥ・ユンエン・・・呉倩蓮(ン・シンリン)
ウェイチン・・・・・・黄磊(ホァン・レイ)



レスリーの初プロデュース作品であり、また映画の中で歌われている劇中歌もレスリー自身の作曲による。
「オペラ座の怪人」を基にした1939年の中国映画「夜半歌聲 」のリメイク版。

旅回りの劇団が、10年前に焼け、荒れ果てたままのオペラ劇場にやって来る。その中のウェイチンは、10年前に焼死した筈のかつての名優ソン・タンピンに出会う。ウェイチンはタンピンから「ロミオとジュリエット」の台本を譲り受け、舞台でロミオを演じるのだ。

タンピンは昔、ドゥ家の一人娘ユンエンと恋仲だった。しかしユンエンは政略結婚のためツァオ家の息子と結婚させられる。タンピンは硫酸で顔を焼かれ、劇場に放火される。嫁いだユンエンは処女でないことからすぐさま離縁され、そしてタンピンを失ったことで正気を失ってしまう。

それから10年。ユンエンは満月の夜になると荒れ果てた劇場に姿を現わし、タンピンは彼女に姿を見せることなく歌い続けるのだった。
そして、タンピンがウェイチンに台本を渡したのは、自身のかわりにユンエンに愛を伝えてもらおうとするためだったのだ。

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ふむふむ、1936年の上海では、この荒れ果てた劇場にウェイチンらがやってきたわけね。その10年前にタンピンは自ら設計した近代的なオペラハウスで「ロミオとジュリエット」を演じてたわけね。
1936年といえば、北京ではちょうど段小樓と程蝶衣が京劇役者としてスタートを切った頃ではないか。なんか面白いなあ。

ユンエン、とってもよかったですね。お嬢様できれいなんだけどとっても可愛い。
幾つかつい泣けちゃうシーンもある。
何も書かれていないタンピンの手紙を、読み上げるウェイチンと、それを聞くユンエン。
正気を失っているユンエンが、街の口紅屋で口紅をつけ、そして「タンピン! タンピン!」と叫ぶ所。
ラスト近く、目の見えないユンエンの耳元でタンピンが歌うシーン。
そしてラスト、馬車の中で盲目のユンエンを膝の上にのせているタンピンのシーンなんか泣けちゃいます。

しかし・・・・・。
私は映画としてはあとひとつでした。

映像はいいのよ。多分、ピーター・パウのカメラのせいだと思うんだけど。
すごく高さや広がり、そして奥行きを感じさせる映像で、そして彼のカメラっていつも流れる風をとらえるのよね。例えば荒れ果てた劇場の扉を開けると、澱んでいた空気が埃をかすかに渦巻かせながらもゆっくり動いていくような感じとか、例えば街をさすらうユンエンの周りにきっと流れているだろう、砂混じりの冷たい風だとか。そんな感じはとてもいい。
また、セピア色の画面の感じもとてもいいしね。

でもさあ。なんで監督ロニー・ユーはカラーとセピアに分けたのかなあ?
この意図がさっぱりわからんのだわ。

例えば「ブエノスアイレス」では、再びウィンに出会ったファイの気持ちが色彩を帯びていくのを視覚的に表わしている。
日本映画では大林宣彦が初期の作品で多用している。「時をかける少女」での、芳山和子の心の中に深町一夫という少年がインプットされていくシーンを、モノクロの画面からゆっくりと花が咲くように彩色していく方法で表わしている。また「転校生」での体が入れ替わる前と、そして再び元に戻った時に同じ石段を転げ落ちるシーンで、モノクロを使っている。このラストシーンで映画が再びモノクロに戻った時、なんともいえないカタルシスを感じるのだ。

ところがこの「夜半歌聲 」は、なんでわざわざそんなことしたんだ?
常套手段だと、過去のシーンがセピアで、現在のシーンがカラーだよなあ。ところがこの映画では全く逆だ。非常に現実的な、現在のウェイチンらのシーンが殆どセピアである。そしてこの劇場の管理人が語るという設定で始まる過去の物語が鮮やかにカラーなのだ。これだとまるでウェイチンらが過去の登場人物のような錯覚を覚えてしまう。

例えば、劇中劇である「ロミオとジュリエット」のシーンだけがカラーというのならまだわかるのだが。
または、このタンピンの過去の物語から映画がずっとカラーになるのならば問題はないのだが、この物語が終わり、再びウェイチンのシーンになるとご丁寧にもセピアに戻るんだもんなあ。
時間に関係無く、そしてウェイチンやタンピンの心情にも関係無く、セピアとカラーのシーンが現れる。

これは、どー考えても「レスリーはカラーで」というだけの意図としか考えられない。そう、レスリーがシーンに絡む場面だけ、時間も心情も問わずにカラーになっているのだ。しかもしかも、さらにご丁寧にレスリーがラストに醜い姿(?)を晒すシーンだけは、色を抑えているのだ。
なんじゃこれは?
なるべくレスリーを美しく見せるためか?
または主役はあくまでもホァン・レイではなくレスリーってことか?
なんかそこらへんが不可解でこの映画が楽しめなくなっちゃうんだよなあ。
「白髪魔女傳2」で顕著なように、レスリーはそんなことしなくたって、仮に出番が少なくたって、その存在感で見せちゃうことが出来るのになあ。

そして、とうのレスリーなんですが、登場してきたときに「あれ? レスリーじゃん」と思ってしまったのね。
レスリーはそれぞれの映画の中では、ウィンでありサムであり一航であり蝶衣なのよ。
でもこの「夜半歌聲 」の、特に前半のレスリーは、化けきれていないような、そんな印象を受けてしまったのね。なんと言うか、衣裳をまだきちんと付けていないような。勿論そうじゃないシーンはある。ラストシーン、馬車の中で膝の上に眠るユンエンをのせ、遠くを見つめるタンピンの表情。あれはまさしく最高の表情だったし、そしてタンピンだった、と思うのね。しかし映画前半は、何かいつもよりも物足りない感が拭い去れないんだ。